mr-novelist’s diary

文学と音楽の融合

mr.childrenの歌詞と仏教

 Mr.childrenのボーカリスト桜井和寿さんは度々仏教にまつわる話を公の場でされています。例えば最近のTVのインタビューでは、仏像を見ることにはまっているという趣旨の発言がありました。仏像を彫る彫刻士さんと、音楽を紡ぐ作曲家。製作者の思いが、幾年にわたって引き継がれていく。そこに共通点を見出しているのだろうと自己分析されていました。また2015年に開催された未完tourにおいては、MCにおいてブッタにまつわるある有名な話を取り上げられていました。

 要約すると以下のような話です。

幼い子供を亡くした母親が、遺体を抱えたまま薬を求めて町中をさ迷い歩いていました。ブッタはその母親にこう告げました。

「わかりました、ケシの実を持ってきなさい。そうすれば助けてあげましょう。ただし、いまだかつて死人を出したことのない家からもらってくるのです。」

 これを聞いて母親は大慌てで町中を再び探し回りました。しかしそのような家は決してないこと、そこからこの世の無常さに母親は気が付いたのです。

 このエピソードを、愛とは何か、について語るうえで桜井さんは引用していました。そして、本当の愛とは想像力なのではないかと語られました。

 生と死を超えて、そのありのままの状態を受容する。つまり、受け入れることで人が死んでもなお、残されたものの心に残ることでその人は生き続ける。それこそが愛であると。

 歌う哲学者ですね。自分ではどうにもならないことって人生においては多々ありますよね。それを受容、つまり受け入れることで進んでいこうとするのが仏教的態度だとすれば、桜井さんはそれを歌詞はおろか人生においても体現なされているような気がします。

 さて、最後に歌詞からもいくつか仏教的要素が垣間見える、Mr.childrenの楽曲を紹介したいと思います。

 まずはpiecesという楽曲の二番のサビより

 失くしたピースは見つからないけど

 それでもパズルを続けよう

 全部埋まらないのは わかっている それでいい

 その空白はね

 これから僕らが夢を描くための余白

 いつか描いたやつより 本物にしよう

失くしたピース、つまり失ってしまったものがわからなくても、とりあえずいったん受け入れて進んでみよう。そうすればきっともともと備えていたものよりももっと良いものが見つかるはず。等身大の自分を認め受容しつつ、より変わっていける自分がいることに希望を見出している主人公。実に仏教的な歌詞だな、とも解釈できますね。

 そして等身大といえばあの楽曲、『花~Mémento- Mori~』の二番のサビより

 等身大の自分だって きっと愛せるから

 最大限の夢描くよ たとえ無謀だと他人が笑ってもいいや

 大きな信念を持っていれば、他人の評価なんぞ気にならなくなる。これも仏教の教えにありますね。自利利他という精神にもつながる考え方です。よく自分のことに夢中になっていれば、他人を攻撃する暇などない、などという言い回しをSNSが普及してから聞くような気がします。この考え方がやはり日本人には根付いているのでしょうか。

 そして、お気づきでしょうか。ミスチルの楽曲では、比較的メッセージ性の強い歌詞は二番以降に置かれています。つかみから仏教的な要素入れちゃうと説教臭くなっちゃいますからね。あくまで楽曲全体の中において、物語の起承転結でいう、承や転の役割としてメッセージ性の強い言葉を使っているのでしょう。

 最後に、進化論という楽曲の大サビより

 空を飛び 月を歩き それでも自然に脅かされる

 すべて受け入れて 見果てぬを 素敵な夢を

 君と見ていたい

 今日も廻ってる あぁ この世界 愛しき世界

 君と明日も廻していこう

 はいもうすべて受け入れようとしちゃっていますこの主人公。今日の締めにふさわしい楽曲ですね。世界を丸ごとごと愛するこの精神もまた、すべての命は等しいものとする仏教の精神を感じます。

 だんだん説教臭くなってきたのでこの辺にしておきます。閲覧ありがとうございました。

 

 

20210210234952

繊細な宇多田ヒカルさんの曲作り

 ちょうど宇多田ヒカルさんがデビューした頃にこの世に生を受けたからなのか、宇多田ヒカルさんはMr.childrenと並んで大好きなアーティストの一人です。好きになるきっかけや理由って必ずしも言葉で説明できるとは限らないんじゃないかと感じるんです。

 そんな前置きをしておきながら、今日は自分が宇多田ヒカルさんに惹かれている要因である、歌声や歌詞の包容力に関して少し言葉にしてみたいと思います。

 彼女の曲作りからは、いつも聴き手目線を事欠いてないように感じるのです。どういうことかといいますと、聴き手が心地よいと思う音を選び取って紡いでいるように感じます。どうしても聴き手が受動的な媒体である音において、情報量が最低限に絞られているのが、個人的には心地よく感じます。

 歌詞一つ取っても同じです。Goodbye happinessという楽曲にこんなフレーズがあります。

考えすぎたり ヤケ起こしちゃいけない

子供ダマしさ 浮世なんざ

人は独りになった時に

愛の意味に気づくんだ

 孤独の辛さを知りながらも、愛に気づきすべてを受け入れ肯定していく。そんな風に聴き手を誘う優しさを、感じ取ることができます。もちろんその過程を宇多田ヒカルさん本人が経たからこそ紡げる詩なのでしょう。

 ではその優しさとはいったいどこから来るのでしょう。優しさというものの定義は、受けた人がどう感じ取るかによって変化するものなので割愛します。

 個人の見解としては、優しさとは返報性の法則に乗っ取ったものだと感じています。つまり、誰かに優しくされると優しさをまた誰かに与えることができる。宇多田ヒカルさんも、その当たり前のようでなかなかなおざりにされやすいことを、大衆に向けて実践なさっているように思います。彼女においては、母親である藤圭子さんとの関係性が作品に反映されているのかなと勝手に想像しています。また、これらはキリスト教でいうところの無償の愛にもつながるのではないでしょうか。

 コロナ禍で孤独な状況を過ごす方が多い今だからこそ、宇多田ヒカルさんの楽曲はより輝くように感じます。孤独一つ取ってみても、悪いことであるとは限らないように思います。宇多田ヒカルさんの言葉を借りれば、見方を変えれば愛にあふれていた当たり前の日常に気づくことができたのでしょう。

 僕自身も、無償の愛をこのブログの文面から感じ取っていただけるよう精進していきたいと思います。

 

20210206205615  

初めまして、うさぎと歓迎いたします

 この度ブログを始めるにあたり、初心者なので拙く至らない点も多々あるとは思いますが、ぜひ見ていっていただけると嬉しく思います。

 軽く自己紹介しますと、うさぎと二人暮らしをしている以外はごくごく普通の大学生です。趣味はアコギと読書で、アコギとうさぎを携えて帰省することもままありますがやっぱりごくごく一般人です。「夜と霧」の著者であるフランクルさんに影響を受けた人生観を大切にしていますが、やっぱりごく俗世的な大学生です。

 Mr.childrenやうさぎ、アコギなど自分の興味のあることに関する記事を最初のうちは上げていこうと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。興味を持っていただいた方がおられましたら、是非次回も読んでいただけると感涙に浸れます。

 

f:id:mr-novelist:20210205222305j:plain